元財務大臣
城島光力氏
2009.3.16
◆業種
政治家
◆子供のころになりたかったものは?
獣医
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
毎朝2時間駅前での街頭演説を欠かさずやっている。また仏壇の前に座って先祖に感謝の手を合わせること。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
小学校に入学した頃、父が私に言った「お百姓さんの手を見て美しいと思える人間になりなさい」という言葉
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
父は農林省(現農水省)の役人で技官であった。
退官後も父は日本の農業、農民の暮しを少しでも楽にしたいと全国を回り農業、とりわけ畜産の指導や講演をしていた。
いまでも鮮明に覚えている父の姿のひとつは、真夏の猛暑の中クーラーなど無い私の小学生の頃、若い青年が農業の教えを請に来た。
その時父が汗びっしょりになりながら、一生懸命真剣に指導をしている姿や、日本の農業を何とかしたいという思いその一途さを見て尊敬していた。
日本の農民の生活を豊かにしたいと一途に頑張る父親の背中を見て育ち、小学生の頃から自然と自分も父と同じ東京大学で獣医学を学び、農水省に入って日本の農業の発展に貢献したいと思った。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
政治家になった事。
農水省の役人にならずに大学を卒業して研究室の教授の薦めで味の素の研究所に入社した。
その後労働組合委員長などを経て政治の世界に入った。
サラリーマン生活は25年であるが、その間に政治家も含め様々な分野の人達とお付き合いをした。
そして日本の社会は正直者が馬鹿をみるようなことが多いと思った。
当時のサラリーマン川柳に「手の出る土地は熊も出る」というのがあった。
一生懸命に働けば働くほど円高になり、サラリーマンには土地の値段が上がり都心から遠く通勤に不便な土地しか手に入らなかった。
こんなことが続けば日本の社会はおかしくなるのではないか、そのために政治を変える必要があると思うようになった。
そんなときに多くの先輩達に政治への道を勧められて悩んだ末に政治の道を選んだ。
サラリーマンをしていてまさか政治家になるとは思っていなかったし、味の素に入社して労働組合の委員長になるとも思っていなかった。
政治家になった今も貫いている私の人生観というか基本理念は、父の言葉であり、その意味するところは「真面目に正直に生きている人を大事にする。そういう人を尊敬する。そのような人となれ」という父の教えだ。
議員には二世三世のいわゆる世襲が多いが、自分にはまったく縁のない世界であった。
政治家になってからは本当に苦労の連続である。
今は無い新進党で1期目は東京ブロック比例代表1位での当選、1年後に党が解散。
今の民主党に合流する中、2期目以降は選挙区で戦うこととなり、党から東京13区の足立区を選挙区に指定された。
私にとっては地盤もなく、資金もなく、知人もまったくいないところで半年間は一軒、一軒訪問したが皆応援を拒否され続けた。
空を見上げ天を仰ぐ日々。
それでも毎日毎日諦めずに訪問活動を続けた。
半年後にやっと一人、二人と応援をしてくれる人が現れた。その間の苦労は並ではなかった。
政治は活動するだけで少なからずお金がかかる。かけるのではない。そんな資金もない。
しかもその資金は基本的に自分で用意をしなくてはならない。
今は浪人中であるから失業中で安定した収入もない。
資金の遣り繰りは筆舌に尽くしがたい。
そんな苦労をしてまで何でやっているのか?
いったい何の為にやっているのかと自問自答する時がある。
やっぱり使命感であると思う。
三期当選したが、常々自分が政治家である意味を問い直しながらやってきた。
衆議院議員480名いるが単なる一議員であるなら自分でなくともいい。
城島という議員が必要か・・・本当に城島でなければならないのなら苦労のしがいもある。
城島にしか出来ない仕事がある。
現職の議員時代胸を張れる実績を少なからず上げてきたと自負している。
・・・がまだ道半ばであり、復帰を目指している。
その実績のひとつは雇用に関することである。
2003年の政府の雇用政策に異議ありとの声を上げた。
派遣労働と首切り自由の法案、いわゆる解雇法案の雇用問題。
この法案を成立させてしまったら自分が議員である存在意義がないと心に決め全力で戦った。
解雇法案は国会論戦で政府に白旗を上げさせ政府案を撤回させた。
そして労働者保護をしっかりと保った法律に変えることができた。
労働基準法18条(現在の個別契約法17条)である。
その解雇法案が政府の提案通りの法案が成立していたら今頃解雇の嵐となっていると思う。
また平成16年の年金改正の際に現職大臣などの国民年金保険料未納問題を指摘し、保険料未納未加入問題の火付け役となった。
国会議員や政府の大臣が保険料を納めず国民にだけ保険料負担を上げていく。
全く理不尽である。許せないと思った。だから私は戦った。
民主党の年金担当の筆頭理事として、国会審議の陣頭指揮をとり委員会開催を阻止したこともあった。
体を張って戦った。
その時に与党議員を見ていて法案を作った役人に踊らされていると痛感した。
労働者派遣法改正については、総合規制改革会議のメンバーであったオリックスの宮内さん、ザ・アールの奥谷さんなどとも対決。与野党を問わず多くの議員から、小泉総理と一体となった最高権力者の宮内さんと戦っても何もいい事はないと言われた。
しかしサラリーマンを辞めて二世、三世でもない自分が議員である意味は、おかしい、不条理だと思う事とりわけ正直者がバカを見るようなことに対して戦わなければ自分の存在の意味はないと、この時も覚悟を決めていた。
2年前、3期約9年やっていた選挙区から新しい選挙区(川崎市の川崎区、幸区、中原区)に変わることになった。
こうしたことはほぼ前代未聞のことだと思う。
またまたこの2年間は苦労の連続である。
選挙区を変わり名前も「正光」から「光力」にした。
政治家としては0からのスタートとなるから、生まれ変わったつもりでいる。
力なき正義は無力なり。
正義なき力は暴力なり。
という学生時代少々嗜んだ少林寺拳法の開祖、宗道臣の教えから「力」をとり「光力」とした。
落選して力なき正義は無力であることを実感した。
力がないと駄目だ。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
2005年9月衆議院議員選挙に落選した時。
使命感と同時に自分に与えられた本物の政治家になる為の試練である。
例えると厳冬の中での麦踏み。
私の子どものころは冬、北風の吹く中で芽を出した麦を踏むお百姓さんの姿があった。
麦は芽が出て来たら踏みつける。
踏まれる事により、大きく根を張って、春になると本当に青々とした麦にしっかりとして育っていく。
本物になる為には1度や2度の挫折を経験した者でないと磨きがかからないし、味も出て来ない。
人の痛みも分からない。
人の痛みが分かる為には、自分も痛みを体験しないと分からない。
失業されている人の痛みも、今の自分は失業中であるから分かる。
そのように言い聞かせ乗り越え、踏ん張り、頑張っている。
◆夢は?
もう一度国政に戻り、真面目に生活をしている人達が安心出来るような社会にする事であり、正直者が馬鹿を見ないような社会にする。
雇用制度は働く事に誇りが持てるような、労働の尊厳が保たれるような仕組みに何としても変えたい。
元財務大臣 城島光力 公式ウェブサイト
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