元三越台湾(新光三越)社長
元文化女子大学教授
古山宏氏
2009/5/27
◆業種
経営者
大学教授
◆子供のころになりたかったものは?
医者
父が医者だったため、ほぼ生まれた時から決められていたようなところがある。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
愛犬Tongtong(トントン2世)と、東京ミッドタウン付近の公園を散歩すること。
◆お勧めの本
城山三郎氏の著書全般
企業家や成功者の話が中心。
又、城山氏の生き方、考え方に好感が持てる。
城山氏の妻が、亡くなった後に出版された「そうか、もう君はいないのか」は人柄があらわれている。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「なんとかなる」
世の中には、どうにもならないことがある。
そんなときは、くよくよ悩んでも仕方が無い。
どのように受け止めるか?
考え方次第だと思っている。
2、「変わるものと、変わらないもの」
商品や流行は変わるもの。
サービスも「ありがとうございます」とただ頭を下げればいいものではなく、世界の情報を伝えるなど内容が変化している。
「真心」は変わってはいけない。
これは時代とともに普遍ということもあるが、相手によって変えるものではない。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
中学入学時、人気の高い野球部に入部した。
まもなく、「人が多すぎて練習が出来ない」と、余り上手でない私はクビを言い渡された。
どこか適当な運動部をないかと探し、当時マイノリティーのテニス部に入部。
人数も少なくレベルも低かったので直ぐにレギュラー選手になることが出来た。
中学卒業後入った高校がテニスの強い学校で、東京都で優勝。
医学部の入学に失敗し、浪人中にテニス部の先輩のすすめで、文科系の学部に入学。
4年間体育会テニス部で、練習に明け暮れ、就職もテニス部の先輩の誘いで三越に入社。
70歳になった今、又テニスを始めている。
野球部をクビにしてくれたのが転機、監督に感謝している。
◆問題障害或は、試練は?どうやって乗り越えたのですか?
敗戦後、満州に母と弟三人と取り残されたとき。
と言っても、試練を乗り越えたのは母かも知れない。
敗戦になり、父はシベリヤに抑留され、母と私たち兄弟は満州の荒野をさまようことになった。
当時、母26歳、私6歳、弟は4歳と2歳だった。
26歳の女性が、三人の子供を連れて、荒野を逃げながら生活するのは並大抵のことではない。
特に日本人の子供は狙われていた。
とても良い労働力になったのだろう。
恐怖と寒さと飢えの中、どうやって逃げ回り生活していたのか、その場にいた私にも想像がつかない程だ。
しかも、当時の話をしてくれる人は誰もいない。
又、母は頭を丸刈りにし、頬に泥を塗って男装していたようだ。
私たち子供を守るために、自分の身をそうして守ったのだ。
一年半後、何とか日本に帰る貨物船に乗り、九州の佐世保に到着した。
ここで「なんとかなる」を始めて経験した。
父は、シベリヤから脱走し、一足先に日本に帰国していた。
東京の家も丸焼けで行く所もなく、母校である慶応大学病院の紹介で、静岡県富士市立病院の副病院長として働いていた。
我々が満州から逃げた時200人位いたと思われる仲間は、50人位になっていたのではないかと思う。
帰国できただけでも奇跡なのに、佐世保に父が迎えに来てくれていた。
誰かが連絡してくれたのだろう。
そこから家族4人で、静岡の病院寮にやっとの思いでたどり着いた。
母は「お父さん、子供たちは守りましたよ。一番下の子はごめんなさい。」と言って私たちを父に託すとそのまま倒れこんだ。
本当にやっと、布団で寝ることができたのだ。
母はそのまま帰らぬ人となった。
私たちを守るためだけに生きた、一年半だったのだと思う。
自分は殆ど何も食べずにいたのだから、気力と使命感だけで生きていたのだろう。
母なくしては今の自分は無い。
言葉では言い表せられないが、本当に感謝している。
その後、父は静岡で開業した。
長男である自分は、跡取りとして育てられた。
中学からは、静岡にいたのでは「勉強が追いつかなくなるかも知れない」と父が心配し、東京の親戚に預けられた。
中学、高校の多感な時代、満州からの引揚者で静岡の田舎者だった私はいじめられた。
一人、ここでも「なんとかなる」と思っていた。
父の希望通りの大学医学部の入学は失敗、浪人して再チャレンジすることになった。
しかし、途中で能力不足も実感し、父に思い切って「やめた!もういい!」と宣言し文系に変えた。
父に対する、反抗のような気持ちもあったのだと思う。
翌年、慶応大学の商学部に入学した。
父としては、仕方がないと思いながらもあきらめ切れなかったようだ。
「もしかしたら息子の嫁に医者が来るかもしれない」そんなことをどこかで期待をしていたのだろう。
三人目の嫁が医者でないことを確認してから、古山医院の看板を下ろした。
その父も、もう亡くなってしまったが、亡くなる直前まで戦争のことは一切口にしなかった。
よほど辛かったのだろう。
私からも戦争について、満州について母親について父親に質問したことがない。
というよりも出来なかった。
戦争映画は、今でも見ることができない。
大学卒業後、百貨店の三越に就職。
しばらくして台湾の三越である、新光三越を立ち上げることになった。
日本が支配していたころの台湾は、陸軍配下の韓国と違って、海軍配下に置かれていたようだ。
当時、台湾の山の中まで電気を通し、学校を作った。
それが今でも台湾のインフラとなっている。
現在でも台湾人の中には、日本人に感謝してくれている人が多い。
台湾の大財閥、新光グループと三越が提携し、新光三越を創った。
そして私は、新光三越百貨店株式有限会社の社長となった。
ところが、持ち株比率の問題で新光グループと折り合いが付かなかった。
新光グループは51%の保持を主張して来たのだ。
51%対49%は、95%対5%と大差ない。
50%対50%にするよう任命された。
まず台湾に住んで、新光グループの役員家族と親交を深めた。
食事会を開いたり、麻雀をやったり、奥様方とテニスに行ったりした。
台湾に永住するつもりで住宅、墓の購入を考えていた。
しかし実際には、外国籍の人が台湾の土地・住宅を買うことは出来ない。
そうしているうち、新光グループが50%の条件を飲んだ。
1%のために1年間かかった。
50%の条件を飲んでもらうために始めたことでも、最終的には本気でコミュニケーションをとった結果だと思う。
人を動かすのは、上っ面ではできない。
下心は見抜かれる。
自分から相手に入っていくことが大事である。
私も例外ではないが、日本人は、海外に行くと日本人同士で固まって現地の人と付き合わない人が多い。
これでは、親しくなりようが無い。
他国に行ったら、その土地の人に触れ、文化に触れて見てほしいと思う。
50%50%の条件が整ったら、人材教育の壁があった。
台湾の接客は、お客様を座って待つ。
日本の百貨店ではありえないことだ。
「お客様がいないのに何で立ってなきゃいけないのですか?私たちは、お客様が来たらきちんと立ちますから!ずっと立っているのは疲れるから嫌です。」というのだ。
更に「ありがとうございます。」が言えない。
「欲しい物を売ったのだから、御礼を言う必要はない。」と言い出す。
その上後姿にも「ありがとうございます。」と頭を下げることを伝えると、「なんで見てないのに御礼を言うのだ!まして、頭を下げて後ろ姿にまで言う必要はないだろう」という。
理屈としてはその通りだ。
台湾は、労働時間が長い。
立ったままでは、疲れるし、後姿にお礼を言っても見えないのは確かだ。
風習の違いが大きすぎる。
更に、遅刻が多い。
しかも「私は悪くない。」という。
自分はいつも通り家を出ているのに、バスが遅れたから、天気が悪いから道が混んでいたなどの理由をつけて正当性を主張する。
又、店舗建設についてもそうだ。
日本だったら工期の遅れは賠償問題になるが、台湾では天気が悪くて工期が遅れた場合は、あくまでも天気のせいで現場の責任にならない。
なので、完成が遅れることは多々あった。
日本では考えられない。
苦しいスタートだったが、一人ひとり丁寧に根気良く教えて行った。
今では日本の百貨店よりサービスが良いのではないかと思う。
又、新店舗のオープン戦略も日本とは違う。
高雄(タカオ)と台北(タイペイ)に出店計画があった。
日本に例えれば、東京と大阪みたいな場所だ。
例えば、高雄が4月、台北が10月にオープン予定だったとする。
しかし、台北の工事がことのほか早く進み4月の時点でほぼ完成していたとすれば、たとえ工事中の状態でも4月にオープンさせてしまうのだ。
商品の発注計画もあるので、品揃えも追いつかないし工事中では見栄えも悪い。
人の採用、教育も出来ない。
更に危険も伴うことだ。
しかし、台湾の考え方は、以下の通り。
1、高雄と台北を、同時オープンすれば話題になり宣伝効果がある。
2、少しでも早くオープンさせれば、早く収入が入ってくる。
3、工事中でも80%のお客様が満足してくれれば、顧客満足度は100%でなくても良い。
4、工事中でも地代家賃は発生するので、早くオープンさせないと家賃がもったいない。
などである。
プラスマイナスの理論で、総合して考える。
工事中で、見栄えや品揃えの悪さ、更に危険というマイナス部分があっても差し引きして利益が上回れば良しとする。
この方法は、顧客のリピート率を考えると良いかどうかは分からないが、ようはマイナスがあってもプラスがマイナスの数を上まわれば良いのである。
アメリカの政治経済もそうだと思う。
逆に日本は、成功をしようと行動を起こし3回失敗して5回成功したプラス2の人よりも、一度も失敗しない人、もしくは一度だけ成功した人の方を高く評価する傾向がある。
行動して、もしも失敗したら未来が無くなる。
更に、成功しても大して褒められない。
日本人は、連帯感が強く、勢い付くとアメリカまで侵略できるのではないかと考えるほど物凄いパワーを発揮する反面、保守的で失敗を恐れる。
更に、あら探しが得意で完璧さを求める人が多い。
そんなところに日本人のマイナス思考が伺える。
これからの若い人は、日本人のパワーと丁寧さや真心を活かし、良いと思ったら「まずはやってみよう!」という行動力を身につけてほしい。
結果として出店計画は成功し、台湾三越も現在は14店舗出店し、日本の三越より売場面積が広くなり、業績も順調である。
他にも、冷や汗をかいたことがある。
日本の三越の入り口には、ライオン像が置かれている。
台湾にもライオン像をと思い、台湾で1番の芸術家にライオン像を依頼した。
ところが、台湾のライオンは獅子だったのだ。
日本でいったら、狛犬のような形をしている。
恐る恐る日本の社長に報告に行った。
相当覚悟していったのに「いいじゃない。郷入ったら郷に従えというでしょ。」という。
更に、ここでも「なんとかなる」ということを実感した。
台湾で学んだことが三つある。
1、1%の重要性
2、プラスとマイナスの考え方
3、郷に入っては郷に従え
その後、日本に帰り定年まで勤めた。
定年直後、新宿にある文化女子大学からお声がかかった。
実業界からの教員採用ということで三越、帝人、レナウン、毎日新聞から一人ずつ選ばれた。
私は流通論を担当し、理論ではなく流通現場の話が授業の中心となるよう極力努めた。
10年勤めて、今年の春定年を向かえた。
70歳の誕生日に、10年間の「古山ゼミ」卒業生たちがお祝いをしてくれたことがとても嬉しかった。
◆夢は?
女性が子供を産み育てることを、幸せに楽しくできる日本!
教え子たちとは今でも付き合いが多い。
若い人たちから学ぶことも随分とある。
日本人は勿論、韓国、台湾、中国の留学生も結婚式に招待してくれる。
喜んで出席するが、教員冥利に尽きる。
その彼女たちは、「30歳までは絶対に結婚しない!」という。
そう言わず、早く結婚して、子供を産み育てる幸せと楽しみを味わってほしい。
これは、お金には変えられない。
又、仕事と自分の趣味は分けた方が良いと伝えたい。
自分の好きなブランドに就職したいという学生が多いが、いつまでも同じブランドが好きでいられるとも限らないのだ。
仕事は仕事として考えてほしい。
そしていつまでも幸せでいてほしいと願う。
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